
表紙写真/タイラジュン
シリーズ「復帰40 年」を問う
インタビュー◎写真家の想いを聴く 國吉和夫 (聞き手=タイラジュン・豊里友行・伊波一志)
対談◎小橋川共男×比嘉豊光
〈写真〉
○タイラジュン 自分事
○松本太郎 Yナンバー
○伊波一志 母の奄美
〈銅版画〉
○石垣克子 コルクの歌
〈漫画〉
○松本森男 津田に住む
〈文〉
○松本太郎 批評的でないものは写真ではない タイラジュンへの手紙
《終刊のことば》
今号をもって写真雑誌LPは最終号といたします。自分たちの写真発表の場だけではなく、写真をめぐる議論の場が必要だという思いで編集し発行を続けてきましたが、ふりかえってみてそれは決して十分になしえなかったことを認めなければなりません。自分の力不足を痛感しています。実に僕は甘かった。写真だけに限らず、人間の社会活動全般がマーケティングの言葉で語られている今、言葉を深めつつ思索的であることより、思考も言動も反射的・PR的である人間像に付和雷同する人が多くなりゆく現状を、実に甘く見ていた。写真家もまた、己の顧客に価値を提供することに忙しくするばかりでは、大切なことを考えないで済むような仕組みに与していくのも当然の成り行きといえばそれまでかもしれません。いや問題は「考えていない」ことではなく、「考えている」と過信する嘘っぱちにあるのでしょう。――かくも退廃的な今こそあらためて、写真のあり方についても問い直す必要を孤独のうちに感じています。
「戦前」とは実際に戦争があった後にそういえる時代のことですが、戦争が起こるまでほとんどの人たちは己の日常に何ら疑いも抱かずに過ごし、その中でものを考え感じるものです。人とはそういうものだとはいえ、もう後戻りができないところまできてようやく何が起きたのかに気が付く愚かさを幾度思い知ればいいのでしょう。これが戦争、あれが戦前だった、戦争の前触れはあのように私たちの「目の前」で起きていたのだ、と回想したところで取り返しはつかず、国家に死を突きつけられる――ごく当たり前だと思い込まれている常識的で自明なことの中に、うっすら含まれている不明を直視せずに放置した結果、問題はムクムクと肥大化し、皮肉なことに人びとが望んだ帰結として人びとを「窒息死」させたのです。僕はこれからの子らをそのように死なせたくない。目の前のなんでもない出来事に異臭を感じれば、やはり目を見開くべきなのです。たとえそれが当たり前のことだとしても、当たり前だと決め付けている自分の前提をまずは考えてみるべきなのです。
「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない」というカエサルの言葉を持ち出すまでもなく、現代人もまたついつい現実を恣意的に見てしまうものです。しかし、視ることを意識的に徹底しているはずの写真家が、見たいものだけを見、撮りたいものだけを撮る己のありように何の疑念も抱かなくなるのは、権力におもねるよりもさらに愚鈍に思えます。人であれば誰しもが陥りやすいことだからこそ、ものを視る人=写真家には「なぜ見るのか、なぜ撮るのか」という倫理的想像力と内省が必要とされるのではないでしょうか。常に問題は過信にあるのです。
人間にとって重大だが極めて見えにくいものごとを、見えるようにできるのが写真です。と同時に、大事なことから人びとの目をそらさせ、見えにくくすることもできるのが写真だという戒めを忘れてはならないでしょう。
さて、最後になりましたが、これまでLPに参加してくれた皆様と、販売にご協力くださった書店の方々、そして本誌を手にとって読んでいただいた読者の方々にあらためてお礼を申し上げます。
今号に参加いただいた伊波一志さん、石垣克子さん、松本森男さんは連載途中となってしまいましたが、それぞれの作家活動は今後も続きます。読者の方々には今後とも温かい応援をお願いしたいと思います。(松本太郎)
LP#21
発行 photogenic person’s peace
発行日 2012年12月12日
限定500部
ISBNコードなし
定価(税込) 750 円
86ページ・B5

裏表紙写真/松本太郎
posted by photogenic person's peace at 15:15|
メディア掲載
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